袖ケ浦公園 野良猫の事情

 

吾輩は野良猫である。
名前はまだ無い。

 名前がなくても特に支障はない。
人間の顔は毛がなく、つるつるしてまるで薬缶のようである。
そんな人間から「アカ」と呼ばれることがある。
吾輩の体毛が茶色なので「アカ」と呼ぶようだ。他の猫も毛の色を見て「シロ」だの「クロ」だの「ブチ」と呼ばれている。呼ばれた時は「ニヤオ」と言って愛敬を振りまくと人間は大層喜び、餌をもって来てくれるのだ。他の猫も大体同じことをやっている。

  吾輩は好きこのんで野良猫になったわけではない。
どこで生まれたかトンと見当がつかぬが、人間に直接飼育されていたことは記憶に残っている。名前もその時はあったようだが、加齢のせいか思い出せない。

 いつしか人間との関係が悪くなり、飼い主の家を出たが、その後、特定の飼い主もなく、特定の住むところもないところから世間一般で言われる野良猫と言われるようになったのである。今でも野良猫を増やしているのは人間の勝手な行動だと思っている。

 野良猫になって良いことと言えば人間にご機嫌をとる必要がなくなり、ネズミを捕獲することもなく、外を自由に散歩することができるようになった。
吾輩が飼い猫であったころ、吾輩の発情期にオス同士のメス独占の争いは熾烈を極め、夜中に威嚇行動の甲高い鳴き声と格闘に伴う騒音が、近隣の人間に睡眠不足をもたらしたことがあった。水をぶっかけられたこともあったが、今は公園でいくら甲高い声を出しても誰にも迷惑をかけないのが実に良いところだと実感している。

野良猫になっても衛生面には必要以上に気を使っている。

吾輩は体内から排泄物を出すときは、柔らかい土を掘り返して排泄し、終わった後は土をかけて隠しているが、一部の猫にはたれっ放しの猫もいて人間の評判を悪くしている。誠に残念なことである。また、道路の舗装などにより土の露出面積が減ったのも悩みの種である。

 考えてみると特定の個人が住む家屋をねぐらとしていない猫が野良猫と言われるのであれば、今は公園が特定のねぐらであり、餌をもってきてくれるボランティアの人が飼い主だと考えると吾輩は立派な飼い猫であり野良猫ではないと思う。

吾輩の友人たちの寝相をお見せします。
季節は暑くなってきたので、草むらで寝ていることが多くなっている。
それも一日、何もすることがないので寝ている。寝ている猫。
「寝子」と呼ばれることもある。

 

(寝相の悪い猫)

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(寝子たち)

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「同情するなら餌をくれ」と言っている。(古いですかね)