先日、『「怖〜いお話」その1  2011.9.20』というものを書きました。内容は
『今から約50年後の2060年。日本人の平均寿命は、女性は160歳、そして男性は150歳になり、
アチコチにオジイサンとオバアサンがいて今以上の高齢化社会になる』というものです。
そしてその内容の一部に
『昔「桃太郎」というお伽話に「昔、むかし、あるところにオジイサンとオバアサンが住んでおりました」
というところがございますが、2060年頃は「いたるところにオジイサンとオバアサンが住んでおりました」
という時代になっていたのでございます』と書きました。  [id:h-kawa0619:20110920 「怖〜いお話」その1]
昔の日本人は短命で、オジイサンとオバアサンの存在が大変珍しく、オジイサンとオバアサンはあるところの
限られた場所にしかいなかったのではないかと、「桃太郎」のお伽話を読んで思いました。
それから連想して「怖〜いお話」を書いたのです。
ところがこれが大変な間違いであったことに気がつきました。


先日、
「中高年の良さは、大体、あと何年生きればいい、という推測が可能になったことで、
もちろんその間に大病をするとか、地震に遭うとか、自立が不可能となるとか、予想外の運命の出現は
大いにあり得ることなのだが、それでもなお、推測の範囲はずいぶん縮められてきたのである」
(曾野綾子著 「人生の収穫」・河出書房新社)
ということから、自分の余生の目安からそろそろ本棚でも整理しておこうと思いたち、
ホコリと一緒に積んであった本を取り出しました。
その中に何十年も前に子どもに読み聞かせた「一寸法師」というお伽話の本がありました。


一寸法師
『むかし、むかしあるところにおじいさんとおばあさんがありました。
 二人には子どもがいなかったので、おじいさんとおばあさんは神さまにお願いしました
「神さま、親指くらいの小さい小さい子どもでもけっこうです。どうぞ、わたしたちに
 子どもをさずけてください」
  すると本当に、小さな小さな子どもが生まれたのです。
 ちょうど、おじいさんの親指くらいの男の子です。
 二人はさっそく、一寸法師(いっすんぼうし)という名前をつけてやりました』


  涙が出るほど、懐かしいお伽話です。


一寸法師」を読み始めて「アレッ」と思いました。
一寸法師にもオジイサンとオバアサンが出てきます。
オジイサンとオバアサンの存在がとっても気になりました。
そこで、日本を代表するお伽話をインターネットで調べてみました。


「桃太郎」
  『むかし、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました』(福娘童話集)
「かちかち山」
  『むかし、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました』
「花咲じいさん」
『むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました』
 (お隣には欲張りジイさんもいました)
「したきりすずめ」  
『むかし、むかしあるところにおばあさんとおじいさんが住んでいました』
かぐや姫
『むかしむかし、竹を取って暮らしているおじいさんがいました』
こぶとりじいさん
『むかしむかし、あるところに、ほっぺたに大きなこぶのあるおじいさんが住んでいました』
(近くにもう一人のコブジイさんがいました)


お伽話の殆どに、オジイサンとオバアサンが出てきたのです。
なんのことはありません。昔もオジイサンとオバアサンは日本のアチコチにいて、
高齢化社会だったのです。
唯一若者がでてきたお伽話は「浦島太郎」です。
『むかし、むかし、ある村に、心のやさしい浦島太郎という若者がいました』
と若者が主人公になるお伽話は極めて少なく、昔は今より若者が少なかったことが伺えます。
そして、さらに、若者が少なく大変深刻な時代であったことを裏付けるお伽話があります。
それは「一寸法師」にありました。
もう一度、前述の「一寸法師」を読みなおしてみて下さい。
『オジイサンとオバアサンは神様にお願いしたところ、小さな、小さな子どもが生まれたのです』。
とあります。高齢のオバアサンが子どもを生んだのです。若者がいなかったからでしょう。
(もしかしたら、神様が生んだのかも知れません。いまだかつて人間の前期・後期高齢者の出産は
聞いたことがありませんし、不自然です。神様だったら産めるかも知れません)


それにしても昔も今も高齢化の時代だったようで、昔はオジイサン・オバアサン少くなかったと
の認識は間違いであったことに気がつきました。


ついでに
一寸法師」の出だしで何か気になりませんでしたか。
『むかし、むかしあるところにおじいさんとおばあさんがありました』。
と始まっています。
このことを質問した方がありました。(いました)[どっちだろう]


 質問 『人の存在を「ある」というのはなんとなくそぐわない。「ある」と「いる」
      とはどう使いわけるのでしょうか』


 回答 『前文省略 人や動物が、具体的な、ある場所に一時的に存在していることを表すときは
     「いる」を用いるが、ただし、漠然と有無を問題にするだけなら、「むかしむかしあるところに、
     おじさいさんとおばあさんが「あり」ました」のように「ある」を用いることができる。以下省略』
       (井上ひさしの日本語相談・井上ひさし著・新潮文庫)


    『現代語の「いる」は、人間や動物の存在をいう。「ある」は動物以外のものごとの存在をいう。
    「あの方は男の子が三人あるが、女の子はない」ということがあるが人間を存在するものとして
     のとらえた言い方である』
       (角川必携 国語辞典 大野晋田中章夫編・角川書店)


日本語の使い方は難しいですね。





[公園の秋]