「子 孝行」

今日の天気 晴れ

朝方、寒かったですね。でも、日中は穏やかに晴れ上がって少し暖かくなってきました。これからしばらく冬型の天候が続きそうです。「西高東低」冬型の天気図です。


僕のスクラップブックに8月24日付けの読売新聞朝刊が貼ってあります。
作家「吉村 昭さん 自ら”尊厳死”」という表題がついています。
吉村 昭さんは平成17年2月に舌癌を宣告され、その後、新たに膵臓に病巣が発見されて
膵臓の全摘手術をうけ、そして7月31日の未明に亡くなりました。
亡くなる前日に「死ぬよ」と言い、遺言状には「延命治療はしない」と明記されてあったといいます。それは「人さまに迷惑をかけぬように」という配慮があったからです。


吉村 昭さんの遺作短編集「死顔」。その中に延命措置について著者の考えが書いてあります。さらに歴史小説の作家に相応しく、幕末の蘭方医 佐藤泰然の例をとりあげ、
《幕末の蘭方医 佐藤泰然は、自ら死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物を断つて死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲のものひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ》。吉村 昭さんはまさにこれを実行されました。
吉村 昭さんは「食べ物を断って死を迎えた」のではなく、自ら「首の静脈に埋め込んであるカテーテルポートの針を引き抜いた」のです。そして「死ぬよ」と家族に告げました。
家族は本人の意思を尊重して治療をせず、吉村 昭さんはその数時間後に亡くなりました。
家族の方はどんな思いだったでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。



今から7年前の2月、姉の長男から「お婆ちゃんが危篤」という電話が真夜中にかかってきました。その日、東京は暖かい日でした。母親が狭心症で倒れたというのです。そして自ら救急車を呼んだと長男は言いました。
母親は85歳でした。緊急手術が行われ、峠は今日、明日というものでした。医者からは親戚の人に連絡をしなさいと言われたといいます。
東京に出てきてから40数年間、一度も冬の季節に帰ったことがありませんでした。東京がいくら寒いといっても、雪の降る故郷の寒さより暖かです。今の季節、服装はどんなものを着ていくか、履物はと考えて明るくなるまで気を紛らわし、朝一番の飛行機で故郷に向かいました。



故郷は雪が降っていました。駅からタクシーに乗り、母親が入院している病院に向かいました。この病院は心臓病ではかなり有名な病院で、母親が救急車を呼んでこの病院名を言ったことは賢明な対処だと思いました。そして、無事であることを願いました。その日は日曜日で病院はひっそりとして、母親の状態がより一層深刻なものになっているのではないかと思いました。病室に入ると姉が手術を終えた母親の看病をしていました。母親の顔色はどす黒く、カテーテルが数本体の中に差し込まれていました。
姉と僕は母親が自分で救急車を呼んだことに驚き、そして、それが結果的に早い手術につながったことで一命を取りとめたとのことなどが姉から告げられました。
しかし、まだ安心できないということで、家族は終日付き添っても良いと病院から許しをもらい、病室に泊まることにしました。
病室は酸素吸入器の音だけがさびしく響いていました。まだ、母親は眠ったままです。
父親はすでに亡くなっており、母親一人だけの生活をしていました。五人の子供を生み、歳をとっても子供たちに迷惑をかけたくないということで。
三日目の朝、ようやく母親の意識が戻りました。話かけても一言、二言しか返事が返ってきませんでした。「○○だけど分かるかい」と僕の名前を母親に言いました。「分かんない」母親の返事です。ここはどこなのか。自分がどうしてここにいるのか。まだ、母親に理解できない状態で、東京にいる自分の息子が話しかけてくるのはあり得ないことだと思ったのは当然のことです。四日目に故郷を離れました。経過が順調に推移しており、もう、大丈夫だということでしたので。帰りも雪が降っていました。



4年が経過しました。姉から電話がかかってきました。「母さんが死んだよ」。
母親は自分のベッドで亡くなっていました。姉が母親の家を訪ね、母親がベッドで寝ていたのでそのままにしておき、時間が経っても起きてこないので起こしに行ったらすでになくなっていたとのこと。台所には夕食の準備がしてありました。鍋にはなぜか煮物が沢山作ってあり、一人では食べきれない量でした。自分の死を予感して、今晩、子供たちが集まることも予感したのかも知れません。
高齢な母親に「親孝行」は何もすることができなかった。逆に母親から子供たちに「子孝行」をしてもらいました。それが悲しい。
誰にも迷惑をかけずに生きてきた母親、そして最後は静かに逝った母親、今晩、子供たちが集まり、夕飯に煮物を食べてもらいたいと沢山作ってくれた母親。それが悲しい。
「子供たちに迷惑をかけられない」母親の口癖でした。4月20日、山には雪が残っていました。それから2年半が過ぎました。


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