「母さん、元気ですか。そっちの世界の生活にも慣れましたか。あれから3年過ぎました。
その後の状況など報告することがありませんが、僕らも元気に生活しております。
田舎はもう雪の季節を迎えています。母さんの嫌いな雪の季節です。雪投げが大変だといつも言ってましたね。
そうそう、父さんと会えましたか。父さんは母さんより24年前にそっちの世界に行っちゃったけど母さんの顔は覚えていると思うよ。父さんは話相手ができたと喜んでいると思うんだけど。
でも、あまり仲が良くなかったからどうかなぁと心配しています。
母さんのことだから父さんに会ったら24年間の出来事を次から次へと話こんでしまうんじゃないかと思うけどどうでしょうか。父さんは無口な人だから黙って聞いているでしょうけど。


母さんのことは何も知らないんだよね。学校を卒業してからすぐ東京に出てきたから、母さんとゆっくり話をする時間がなかったので、御免ね。
父さんとは恋愛結婚、それとも見合結婚。どこで知り合ったのかなぁ。そんなことも知らないんだよ。
母さんと父さんが結婚したから僕が生まれ、この世のことをいろいろと経験させてもらったからすごく感謝しています。でもね、親孝行できなかったことが心残りです。
母さんの一生は楽しかった、それとも苦しかった。どちらだろう。辛かったことがなかったかい。
そんな話ももう聞くことができないね。


僕が小学生のころ、間もなく運動会というとき、『玉入れの玉を作ってほしい』と言ったとき、『忙しくて作れないよ』と母さんが言いました。僕は泣いて頼みました。でも、母さんは作ってくれませんでした。
僕は怒って玉の中に入れる小豆を捨ててしまいました。僕は泣きながら寝てしまったと思います。翌朝、玉はできていました。夜なべをして玉を作ってくれたんですね。
玉の中に入れる小豆はないはずなのに、どうして小豆があったのか今でも不思議に思います。
僕はなぜすぐに玉を作ってくれと頼んだかわかりますか。母さんが玉を作っているところを見たかったらです。このこと覚えていますか。


こんなこともありました。東京に就職が決まって東京に出発する時、駅まで送ってくれました。寒い、寒い雪の降る日でした。母さんの目には涙がありました。
でも、僕は東京ってどんなところだろう。とか、就職する会社はどんな会社だろうかと
そっちの方ばかり気持ちが行って別れの悲しみはありませんでした。ですから喜んで汽車に乗りました。
初めて田舎に帰省したとき、わざわざ駅まで迎えに来てくれました。そして荷物を持ってくれました。普段、そんなことをしたことがないですよね。
その時の嬉しそうな顔が思い出されます。


平成16年4月20日の昼頃、姉から『母さんが亡くなったよ』と電話がありました。
このときから母さんはこっちの世界のことは知らないよね。少し教えてあげますね。


僕はすぐ田舎に向かいました。父さんのときも同じでしたが、最後の別れはできませんでした。
お葬式にはたくさんの人が来ました。母さんの普段の行いがよかったのですね。誰にも好かれ、物知りの母さんでしたから。
僕は遺族を代表して挨拶をしました。
『母はこの日を予知していたのか、朝からたくさんごちそうを作りました。姉と二人の生活ですからそんなにたくさん作る必要はなかったのですが、なぜか子供たち5人が帰ってきて一緒に食事をしても良いようにたくさんごちそうを作りました。
それで疲れたのか寝てしまったとのことです。そして二度と目が覚めることはありませんでした。母は自分の死を予知し、子供たちが集まったときの食事を心配してごちそうを作ってくれたのです。子供たちは母親に最後まで親孝行らしきものはできませんでしたが、母親はこの世の最後まで「子孝行」をしてくれました。そんな母親でした』と。


母さん、「井の中の蛙大海を知らず」という諺を知っていますよね。
東京の出る時、親から離れて生活するのも良いことだと勇んで東京に向かいました。
でも、東京は長い出張先で仕事をするには良いところだと思いますが生活するにはあまりも余裕がありません。
今思えば「井の中の蛙大海を知らず」の方が良かったのではないかと思うときもあります。
両親が近くにいるところで生活するのが一番良かったのではないかと思っているのですが。


でも、東京に出て家族を持つことができました。田舎を出る時、布団だけ持ってきた身でしたが、妻と子供たちに恵まれ東京に出てきて良かったと思うときもあります。
母さんのことを思うと、母さんの近くで生活をしたかった。家族のことを思うと東京に出てきて良かったと思いますが、母さんのことだから多分、東京の方が良かったと言ってくれるよね。母さんには最後まで親孝行できなくてごめんね」


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